学会からのお知らせ

*第34回大会
 第34回大会を東北大学(仙台市青葉区川内27-1)において下記の通り開催します(予定)。詳細は決まり次第,ご案内します。

6月19日(土)
13:00?13:10 開会挨拶
13:10?14:10 記念講演
  「古代地中海世界のローマ人
   ──社会史的考察」      松本宣郎氏
14:25?16:25 地中海トーキング
  「島の魅惑──松島やああ【松】島や【松】島や」(仮題)
   司会:安發和彰氏
16:30?17:00 授賞式
  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
19:00?21:00 懇親会(秋保温泉)
6月20日(日)
10:00?11:30 研究発表
11:30?12:00 総会
13:30?16:30 シンポジウム
  「フロンティア──周縁か中心か」(仮題)
   司会:高山博氏

*常任委員会
・第4回常任委員会

日 時:2009年4月11日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:第33回大会に関して/研究会に関して/『地中海学研究』XXXII(2009)に関して 他
審議事項:2008年度事業報告・決算に関して/2009年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して 他
・第5回常任委員会
日 時:2009年6月20日(土)
会 場:西南学院大学西南コミュニティー
報告事項:ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/機関別認証評価専門委員に関して/退会者に関して 他
審議事項:役員改選に関して/第33回大会役割分担に関して/第34回大会会場について/学生会員の見直し関して 他
・第1回常任委員会
日 時:2009年10月3日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:第33回大会および会計に関して/研究会に関して/NHK文化センター企画協力講座に関して 他
審議事項:副会長に関して/第34回大会に関して/ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して/ヘレンド賞あるいは若手奨励賞に関して 他
・第2回常任委員会
日 時:2009年12月12日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:『地中海学研究』XXXIII(2010)に関して/研究会に関して/ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して 他
審議事項:第34回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して 他

*会費納入のお願い
 今年度(2009年度)の会費を未納の方には,本号に同封して請求書をお送りします。学会の財政が逼迫の折,至急お振り込み下さいますようお願いいたします。ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが事務局へお申し出ください。
 なお,新年度会費(2010年度)については3月末にご連絡します。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313














アラン谷の夏

有田 忠郎



 「地中海はまず山から始まる。」ブローデルの大著にこんな言葉があったと記憶する。この記憶に助けられ,バルセロナからアラン谷までピレネーを訪ねた思い出をたどってみたい。
 アラン谷はどこにあるか。カタルーニャ州を,地中海岸を斜辺とし,フランス国境を上に,アラゴン州との境を左に置く倒立三角形に見立てるならば,西北の角の片隅に位置する小さな地域がそれである。ピレネー山脈の中央よりやや東寄りになるが,西・仏の国境は地中海に発してアラン谷のあたりで北に少し膨らみ,再び南に下って,しかるのち西方に延び大西洋に到る。面倒ならば,いまは観光地となったアンドラ公国の西にあるとお考えいただきたい。
 ただし,アラン谷はカタルーニャ州のリェイダ(旧レリダ)県に属する一コマルカ(郡)で,あくまでスペインの領内である。特徴的なのは,アラン谷がピレネーから北のフランス側に傾斜し,したがってそこの川はすべて北方に流れてガロンヌ河に注ぐということだ。ゆえにピレネー山脈という分水嶺はアラン谷より南にあることになる。
 1999年の5月,私と妻はある旅行会社が企画した「スペイン・ピレネートレッキング」に参加した。集まったメンバーは17名。老若男女のグループのうち,最年長は私たち夫婦である。隊長兼講師は,かの世界的な登山家今井通子氏。それに現地ガイドとしてバルセロナに近いマタロ在住の東海林氏。そしてアラン谷のサラルドゥーに住むマネル氏が途中から加わった。
 バス一台に乗り込み,バルセロナを出てうねうねと彎曲する道路を北上。アラン谷の入口ボナイグァ峠(2,072メートル)が分水嶺となり,そこからピンカーヴを描いてバスはひたすら下りて行く。後に私は詩の一篇で「曲がるたびに/バスは何かを振り落としているのであろう」という二行を入れた。
 第一夜はエスポの民宿に宿泊。そこから同じバスで西行してアルティエスのパラドールに荷を解いた。パラドールは国営のホテルで,由緒ある城館や修道院の跡がホテルに生まれ変わっている。1975年にフランコ将軍が死去したあと,スペインでは観光立国を旗印に,全国にパラドールができた。アラン谷はアイグェス=トルテス国立公園となり,氷河に削られた美しい湖が散在する土
地として,多くのトレッカーが集まるのだ。勇将今井通子氏率いる弱卒の一団もその一つ。
 ホテルは清潔で,部屋もレストランも気持ちがいい。夕食前,近くの教会を訪ねてみた。修復中で今は地元出身の彫刻家たちの展覧会,という掲示を見たからである。中に入ると小さな彫刻が多数展示されていたが,驚いたのはそれぞれの説明文がすべてアラン語で書かれていたことである。私には読めないが,アラン語だということはすぐに分かった。
 フランコの死後,1978年に制定された新憲法の第3条で言語の法的地位が明記されている。スペイン語(カスティーリャ語)は国家の公用語としてすべての国民が学ぶべきこと。当たり前のようだが,こう書いておかないと言語問題でいつ火を噴くか分からないこの国の本音を語っているようで,私には面白い。かつカタルーニャ州,ガリシア州,バスク州もそれぞれの自治憲章をもち,各州の言語を公用語と定めている。これもスペインの憲法に明記されている。さらにカタルーニャでは,アラン谷の歴史的・文化的特質を尊重し,人口九千人ほどのこの土地に自治権を認めていると聞いた。フランコ政府の極端な弾圧政策に対する反撥と反省に立ってのことであろう。ちなみにアラン語は,南フランスのガスコーニュ語に下属する一地域語である。
 さて残り紙面が少なくなった。それから三日をかけてピレネーの北斜面を歩き,私たち二人は足手まといになりながらもグループの人たちに助けられて,ともかく全行程を歩き切った。アラン谷の主邑ビエヤのパラドールも経験した。今井氏の見事な人捌き,その指揮ぶりに一流登山家の片鱗もみた。マネル氏が南仏訛りながらフランス語を話すのにも救われた。ボイ渓谷の町タウールにあるサン・クレメンテ教会で,「全能のキリスト」を描いた有名な壁画(12世紀)も見ることができた。もっともここの絵は模写で,本物はバルセロナのカタルーニャ美術館にあるとのこと。
 そして帰途,かの聖地モンセラートの修道院を訪ねることで,ささやかだが私にとっては永年の課題だった「スペイン側のピレネー歩き」を締めくくったのである。















秋期連続講演会「地中海の光」講演要旨

ターナーとヴェネツィアの光

木島 俊介



 ジョセフ・マロード・ウイリアム・ターナー(1775?1851年)は,ロンドンの下町コヴェント・ガーデンに理髪師の息子として生まれた。早くから天才ぶりを発揮した彼は,14歳にしてロイヤル・アカデミー・スクールに入学を許されるほどで,後にライヴァルと見なされることとなるジョン・コンスタブルが24歳まで入学できなかったことに較べると,その早熟ぶりがうかがえる。コヴェント・ガーデンは陰鬱な裏町だが,ここからテムズ河畔に下ってゆくと,突然に視界は解き放たれる。灰色に,うす青く,真珠母色に,黄金色に,天空と行く雲の光を映して揺れ輝く水面。夕刻となると,永遠に静止したごとき水の鏡に,舫われた帆船の黒々とした船体と林立するマストが,底深く影を落す。陽が落ちると,これら黒々とした影は夜の魔物の旋律を持って,音も無く,暗澹とうねりはじめる。舷側に炎のランプが現れ,肌膚を焼かれた水夫の鋭気に輝く顔を照らすが,これもまた冥い船倉の底へ消えてゆく。「ロンドン世界のうち,もっとも天使のごとき人々」,少年を魅了したこれら幻のごとき実体。これが実はロンドンっ子ターナーの原風景であった。
 もちろん「グランド・ツアー」の時代である。さらには画家として,古典イタリアは必見の地であり,文化である。ターナーのヴェネツィア旅行は3回行われたらしい。仮定形で述べる理由は,ラスキンについで最も古いターナーの伝記作家ともいうべきA.J.フィンバーグは彼の著書『In Venice with Turner』(1930)のなかで,ターナーのヴェネツィア旅行は4回行われたと述べているからだが,極度の秘密主義者であったターナー側に資料が過少なため,これは実証できていない。彼は手紙も書かず。スケッチに日付も入れなかった。
 ともあれ,1819年に行われた最初の旅行(44歳)はむしろローマが目的地で,6ヶ月に及ぶ大旅行であった。ドヴァーから英仏海峡をカレーに渡り,パリ,リヨン,シャンベリーからアルプスのモン・スニ・パスを越えてトリノに入り,ミラノからコモ湖周縁をめぐった後ヴェロナ,パドヴァ,そしてヴェネツィアに至る。馬車の旅はおよそ6週間を要した。この旅の目的地はローマであったから,ヴェネツィアを立つとボローニアからアドリア海側のアンコナを経由してローマに入った。だがこの最初のイタリア旅行を契機としてターナーはヴェネ
ツィアの魅力に捕われることとなる。
 続く1833年の旅行(58歳)と,1840年の旅行(65歳)とは明らかにヴェネツィア再訪が目的で,ルートは変えて,前者ではドイツ経由,後者ではオーストリア経由と好奇心の強さを示しているのである。
 なぜヴェネツィアであったのか。ターナーはもちろんケネス・クラークがいうところの「北方の光」のなかで彼の芸術を開花させた風景画家でありロマンティストである。自然のなかにあふれている清浄さには,心を開いて自然に没入する人々を浄化し高揚させる効験があるというワーズワース的なこの信念は,同じくターナーのものでもあった。16世紀の神秘家セバスチャン・フランクはこのような全一的な世界のヴィジョンを言葉を変えて語っている。「大気がすべてのものを満たし,ひとところに留まっていないように,陽光が地上のすべてあふれながら,地上のものではなく,とはいえ地上のすべてを生きいきと緑に萌えたたせているように,神はすべてのうちにあり,すべては神のうちにある」。神秘家のみならずロマンティスト・ターナーの心情も,この全一的な世界のヴィジョンを熱望しつつ彷徨っているのである。画家にとって世界をひとつに繋ぐものは,ひとつの光であり,永遠に現象する光である。しかるに,近代科学と悪しき古典主義とは存在を個別性に追いやり,唯一であるべき光を,光と影とに対比させる明暗法に分裂させてしまった。
 ヴェネツィアこそは,ひとつの都市,いや,ひとつの国家を,ひとつの光のうちに現前させている希有の世界である。ヴェネツィアこそは,水という光の鏡を伴侶としてあらゆる存在物を,あらゆる細部を,繋ぎ止めつつひとつの現象たらしめている特別の世界に他ならなかった。ロマンティスト・ターナーの熱烈な自己投棄を,対象世界への「pathetic fallacy」とクラークは呼んだが,それのみではない。画家は何よりも自己の扱う絵具の世界に深く自己投棄をおこなおうとするのである。絵画のなかでは,ヴェネツィアの光もテムズの光もひとつのものとなりうるのである。















秋期連続講演会「地中海の光」講演要旨

遍歴のギリシア人画家エル・グレコ
──「トレドに光を見た」──

大高 保二郎



  ドミニコ・グレコは辛辣な言葉を吐く偉大な哲人で
  絵画,彫刻,建築についても著作を残した。

 1611年,ベラスケスの岳父フランシスコ・パチェーコが,老境にあるギリシア人画家“エル・グレコ”ことドメニコス・テオトコプーロスをトレドのアトリエに訪ね,その人物について記した言葉である。この言葉の正当性は,古典古代の残照とギリシア的な文化への愛着や,ヴェネツィアで盛んであった建築論,新プラトン主義的な哲学思想への共感などを示す死後の豊かな蔵書目録から想像はできたが,さらに画家自身の自筆書き込みが遺された,ヴァザーリの『美術家列伝』およびウィトルウィウスの『建築十書』が発見されたことによって,エル・グレコが人文主義的な研鑽を積んだ理知的な芸術家であることが明らかにされたのである。この事実は従来の,対抗宗教改革期のカトリック信仰に奉仕する画家からポスト・ビザンティン文化と後期イタリア・ルネサンスおよびマニエリスム理論にも通暁した知的な芸術家へ,エル・グレコ像の一大転回を迫るものであった。
 さて,彼の宗教画は光と闇のコントラストを深めていくが,その画風を解く鍵の一つが,晩年に描いた《トレド景観と地図》の都市図に書き込まれた銘文である。
 「ドン・フアン・タベーラ施療院はどうしても雛形のように置かねばなりませんでした。なぜなら,それがビサグラの門を隠してしまうからばかりでなく,そのドーム,すなわち丸円蓋がこの町をしのぐほどに高くなってしまうからです(中略)。市の他の部分は,これで平面図の通りに見られるでしょう。/そしてまた,聖イルデフォンソに法衣をもたらす我らが聖母の物語において,その飾りとして,また人物たちを大きくするために,私は彼らが天上的存在であることを利用したのです。光の中では,遠くから見れば,たとえ小さくとも我々には大きく見えるからです。」(下線筆者)
 後半の謎めいた文章はプロティノス以来,中世を通して展開されたキリスト教神秘主義と新プラトン主義の光学理論の融合であろう。エル・グレコの理論は,13世紀イギリス人のフランシスコ会士ジョン・ペッカムが『共通遠近法』で説く,「炎の光は遠くから見れば,その炎の中心と周囲の光とが見分けられないために一層大きく見える」という思考に極めて近い。光を神聖視する思想は古くからあり,プラトンが光を「善のイディアの姿(イメージ)」と命名して以来,プロティノス,ま
たキリスト教世界では聖アウグスティヌス,6世紀の神学者偽ディオニュシオス・アレオパギテスを経由してルネサンス時代にはフィチーノにも受け継がれ,エル・グレコと同時代の新プラトン主義者フランチェスコ・パトリッツィにまで至る。
 注目すべきは,プラトンからパトリッツィまでの系譜がそのままこの画家の蔵書目録に辿れることである。パトリッツィの,「天上の光は真理と善の姿であり,自然の光はその神の光から放射して光の姿と道具に変わる」という理論はエル・グレコにも魅力的なものと映ったに違いない。
 一方,偽ディオニュシオスはエル・グレコ蔵書目録中の著作『天上位階論』において,「光は神聖な光輝の行進のように神から発し,天使から天使へ,天上の位階を通って下降し,低次元の我々の上に注ぐ。かくして神聖な光は人間の魂を照らし出す」と論じている。さらに16世紀後半,マニエリスムの画家で理論家ジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォは,やはりエル・グレコ蔵書中の一冊『絵画芸術論』(1584年)において,「神は光の源であり,天使はその反射であり,天は輝きであり,我々はその反映であり,地獄はほとんどまったくの物質,わずかな光の残滓である」と記すのである。
 これら光の神秘的,宗教的な象徴論はあの《オルガス伯爵の埋葬》を制作した1580年代後半あたりから晩年にかけて,彼の芸術を支配する一大ファクターと見なしてよい。さらにロマッツォは,ミケランジェロの“蛇状人体”を発展させながら,炎のように揺らめき上昇するフォルムを称揚する。
 「人物が最大の優美さと生命感をもち得るのは動いていると見えることである。画家たちはこれを人物の魂と呼ぶ。この動きを表現するには,炎の揺らめき以上にふさわしいフォルムはない……人物はこのフォルムをもつ時,もっとも美しいであろう。」(下線筆者)
 こうして光は,神性の結晶,神の顕現であるばかりか,揺らめく炎となって魂のもっとも美しいフォルムの具現であると同時に,地上と天上の懸け橋として激しい長身痩躯の人物像を誘う。晩年にはとりわけ,光があふれ出で,色彩は非地上的な輝きを増し,細長いフォルムは非物質化した空間を聖歌のように溶け合って上昇していく。それはカトリック的なパトロネージの精神を汲みながら,優れてエル・グレコ的な光の美学と知性の総体であることを忘れてはならないであろう。
















研究会要旨

紀元前4世紀アテーナイにおける法廷外決着と公共圏

佐藤 昇

12月12日/東京大学本郷キャンパス


 古典期のアテーナイは司法制度が発達した社会であった。ある研究者はこれを訴訟社会と評する。他方,法秩序が整った社会と見る研究者も少なくない。後者の見解に従えば,濫りに提訴できぬよう制度上の工夫が凝らされ,和解が重視されていた以上,法廷は私闘の舞台にならなかったという。たしかに当時,和解,すなわち法廷外決着は重視されていた。私的訴訟に関しては,訴訟当事者間の私的な合意に法的拘束力が認められていた。しかしながらその一方で,法廷外決着は必ずしも円満解決とは限らず,また不正を助長することにもなりかねなかった。公的な問題に関して告発者と被告人が「和解」し,訴訟を放棄すれば,国益を損なう恐れすらある。公的な問題が闇に葬られてしまう。こうした事態を前にアテーナイはどのような対策を講じていたのだろうか。
 まずは法規制について考えてみたい。テオフラストス『法律篇』によれば,公的訴訟を提起した者は,陪審員の5分の1以上に支持されなかった場合,罰金1,000ドラクメー(以下dr.)を科され,さらにある種の公的訴訟を提起する権利が奪われたという。この同じ罰則が,公的訴訟を提起した後に手続きを進めなかった者に対しても適用されたとされている。すなわち告発者と被告人の間で濫りに和解が行なわれ,訴訟が放棄されることに対して,明確な法的措置がとられていたのである。
 しかしこの罰則は画一的には適用されなかった。まず国事犯級の重罪を扱う弾劾裁判(エイサンゲリアー)に関しては,訴訟放棄に関する規定がなかったと考えられる。テオフラストスは,弾劾裁判については得票5分の1未満の場合にしか言及しておらず,放棄した場合の罰則がなかった可能性が高い。さらに得票5分の1未満に関する規定がなかった330年代までは,訴訟放棄に対する法規制もほぼ確実になかったと考えられる。その他のいくつかの公的訴訟の場合,公訴提起権は奪われず,罰金1,000dr.のみが科されていたらしい。陵辱行為(ヒュブリス)法では公訴(グラフェー)手続きを進めない者に対して罰金1,000dr.のみが科されている。ファシスという公的訴訟に関しても,罰金1,000dr.しか科されていなかったらしい。すなわち,少なくとも一部の公的訴訟に関しては,罰金しか科されていなかった可能性が高い。1,000dr.は決して少額ではないが,払えない額ではない。別の言い方をすれば,これさえ支払えば,少なくとも幾つかの公的訴訟においては,訴訟を途中で放棄で
きたことになる。
 実際いくつかの事例では,公的訴訟を提起し,手続きを進めなかった者が罰を被らなかったかのように描かれている。予審段階で手続きを行なえば,合法的に取り下げることができたという説もある。罰金1,000dr.を払って済ませたという可能性も考えられる。いずれにせよ公的訴訟は,何ら罰を受けることなく,あるいは罰金を支払うだけで,取下げ,または放棄することができた。この他,訴訟延期宣誓(ヒュポーモシアー)を利用する方法も知られていた。これは本来,病気などを理由に一時的に訴訟手続きを停止するための措置であった。しかし訴訟再開は告発者の意思に委ねられていたため,告発者は被告人と取引をして訴訟を再開せず,そのまま無期限に延期し,実質的には放棄してしまうことが可能だった。
 このようにアテーナイの公的な訴訟は,明確な法規制があるにも拘らず,あるいはその限界故に,しばしば何らかの手段で放棄されていた。それではこうした事態に対して世論はいかに反応していたのだろうか。史料には,公的訴訟の放棄に対する非難が幾つも認められる。しかしその多くは,相手の信頼を損ねるために,その人物がかつて公的訴訟を放棄したことがあると暴露し,揶揄するに過ぎない。その人物の行動に一貫性がなく,信頼性に欠けると主張するのである。この場合,過去を揶揄するに留まっており,公的訴訟の放棄が世論からさほど厳しい批判を浴びていたとは,必ずしも言い難い。
 しかしいくつかの史料によれば,公的訴訟の放棄は市民の怒りを招いたとされている。放棄した場合に想定される市民からの報復を恐れて手続きを進めたと明言する告発者もいた。市民から厳しい反応があったのはポリスにとって重大な事件,あるいは衆目を集める事件だったようだ。弾劾裁判を放棄した場合の罰則が定められていないのも,扱う事件の重要性,注目度の高さ,手続きの視認性の高さといった要素が影響を与えていたのかもしれない。
 だとすればアテーナイ市民は,その時々の情勢や社会慣行などに鑑みて,公的訴訟を放棄する者に相応の反応を見せていたことになる。こうした世論,すなわち公共圏からの反応が,限界のある司法制度を一面で補完していたと言えるのではないだろうか。
















自著を語る61

『ヨーロッパの中世美術──大聖堂から写本まで』

中央公論新社 中公新書2014 2009年7月 319頁 940円+税

浅野 和生


 「高校で一番よく使われている美術の資料集」といわれる本が手元にあります。ルネサンス美術には何ページかがあてられ,「中世では人々はキリスト教に支配されていたが,ルネサンスになると人文主義が花開いた」とお決まりの説明が書かれています。それでは中世美術はどのように紹介されているのだろうと,その前のページを開いて驚きました。ルネサンスの前は,『ミロのヴィーナス』,つまり古代ギリシアだったのです。紀元前2世紀から紀元後15世紀まで千数百年に及ぶ美術の歴史は,その本では完全に無視されていました。
 大学で美術史を深く学ぶ人は決して多くはないので,高校のこの資料集のような本が,平均的な日本人の西洋美術史の知識をかたち作っていると判断してもよいでしょう。私がこの本を書いたのは,そういう一般の人たちに,ヨーロッパの中世美術の美しさ,すばらしさを知ってもらうためでした。
 ところが日本で暮らしていると,ヨーロッパの中世美術に触れる機会はほとんどありません。何といっても聖堂建築は中世美術の精華ですが,中世の大聖堂が日本にあるはずがありません。したがってその中を飾るフレスコもモザイクも祭壇画もありません。美術館や展覧会でも,写本やイコンをごくまれに目にすることがあるくらいでしょうか。
 それでも,一般の人たちにも中世美術との接点がまったくないわけではないと思います。キリスト教式の結婚式にあこがれる女性は少なくありませんが,ホテルなどにあるいわゆる「チャペル」は,アーチ型の窓にステンドグラス,形ばかりのリブ・ヴォールトと,主にゴシックの聖堂建築を模して作られています。しかし,それがヨーロッパの中世美術への興味に結びつくことはなかなかない,というのが現実のところでしょう。
 私は,そういうギャップを少しでも埋め,ヨーロッパ中世美術へのしきいを下げたいと,ずっと以前から思っていました。
 この本をどのような形式にするかは,最初から決めていました。新書で,定価は千円以内。カラー図版も少しは入れたいが,大きな図版は入らなくても仕方がないと割り切りました。その代わり,これまで美術史を学んだことがなくても,ヨーロッパの中世美術に少し興味を持った人には気軽に手に取ってもらえる本にしたいと思っていました。それに値段が安ければ,学生にもそう
遠慮せずに薦められます。
 そういう構想はずいぶん前から持っていたのですが,その一方で,本書の「あとがき」にも書いたように,具体的にどのように書くかという方針はなかなか決められませんでした。時代順にしても,地域別にするにしても,中世美術全体の解説は新書の枚数にはとても収まりません。小さな本に中世美術全部を押し込もうとすると,ひとつひとつの内容がとても貧弱になります。また,いまさら私が書かなくても,もっと良い入門書や専門書がいくらでも出ています。
 そこで,中世美術全体を通してあつかうことは目指さず,いくつかの話題をピックアップして解説することにしました。これなら,細大もらさず網羅的に書く必要はありません。取り上げる話題には,もちろん「聖堂の壁画」「修道院」「巡礼」「写本」といった,中世美術を語るにふさわしいものを選びました。「ヨーロッパ中世美術にはこんなにおもしろいことがある」,あるいは「こういうことを知っておけば中世美術がよりよく理解できる」といったポイントを説明することにしたわけです。
 このようにして書き始めるとそれまでの迷いがなくなり,次々にアイデアが出て来て,あのことも書きたい,このことも書きたい,というほどになりました。「中世美術には独特の魅力がある」ということと同時に,「ヨーロッパ中世美術はキリスト教美術なのでわかりにくいと思っていたが,意外に現代と共通することもあるんだな」ということに気づいてもらいたいとも思いました。中世の人たちの肉声を伝える史料ももっと引用したかったのですが,それは「中世の建築家──カンタベリー」の章だけにとどめました。実のところ原稿はもっと書いていたのですが,最終的に図版を入れて本の形にするにあたって,かなりの枚数を削ったほどでした。
 このような解説の方法がうまくいったかどうかはわかりませんし,評価は読者にゆだねるべきことでしょう。しかしどんな本でも,1冊である分野が全部わかるという本はありません。この本をたまたま手にされた方が,「この本はこういう切り口だったからまた別の本を読んでみよう」「ステンドグラスのことをもっとくわしく知りたくなった」,そして「大聖堂や中世の町並みを実際に見に,いつかヨーロッパへ行ってみたい」と興味を広げて下されば,この本は小さな手引きとしての役割を果たせたと言えるでしょう。











表紙説明 地中海世界と植物6

オレンジ/貫井 一美



 イスラム教徒は711年から1492年という長きにわたり,イベリア半島に多大なる足跡を残した。稲,サトウキビ,綿花,サフラン,桃,柘榴,杏などの灌漑農法はその代表的なものと言える。中でも南欧の太陽のイメージを喚起させてくれる果物,オレンジは,スペイン農業の主要産物である。特にバレンシア地方はオレンジやレモンなどの柑橘類の産地であり,中央部のメセタの赤茶けた大地とはまったく異なる緑豊かな景色が広がる。さらにはコスタ・デル・アサアル(オレンジ海岸)と呼ばれる海岸も夏のリゾート地としてにぎわっている。
 オレンジの原産地は,いくつか説はあるがネパール,ブータン,チベットの交差するあたりだと言われている。中近東を通ってイスラム教徒がスペインへと持ち込んだ。すでに11世紀頃にはスペインにおいて栽培が始まっており,オレンジはスペインを窓口に他のヨーロッパ諸国へと伝播したと考えられている。スペイン語では「ナランハ(naranja)」と呼ばれるが,これはアラビア語の「アサアル」に由来すると言われる。セビーリャのアルカサールの「パティオ・デ・ロス・ナランホス(オレンジの中庭)」は有名であるが,このように庭木としても,また街路樹としてもオレンジの木が用いられている。セビーリャの町に街路樹のオレンジの花が咲き乱れ芳しい香りが漂う美しい宵には心を寄せる女性の部屋のバルコニーの下に立ち,若者たちは恋の詩を朗じたと言
う。なんと美しい情景だろう。スペイン語で「伴侶」をmedia naranjaと表現するがこれはオレンジの半分という意味で,二つあわせて一つの実となるという,何ともロマンティックな表現である。
 オレンジはボデゴン(厨房風俗画)のような絵画にもよく描かれるモティーフで現在エル・エスコリアルに収蔵されている16世紀の作者不詳の作品は興味深い。ラスター彩と思われる魚の図柄の陶器の皿の上に輪切りのオレンジ,その皿の手前にオレンジの実が描かれているのだが,窯業もまたイスラムがもたらしたものであり,典型的なイスラムの陶器皿の図柄とオレンジが描かれたこの作品は,スペインにおけるイスラムの足跡を象徴するようである。
 表紙は,サンティアゴ・デ・コンポステーラの街路樹のオレンジである。アフリカからイベリア半島に侵入してきたイスラム教徒はコルドバ,セビーリャとアンダルシアを皮切りにその勢力を伸ばしていく。どんどんと北に追い詰められていったキリスト教徒たちの窮地を救いに現れたのはマタ・モーロス(ムーア人殺し)と異名をとったサンティアゴ(聖ヤコブ)である。その聖ヤコブの町,カトリックの一大巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラの街路樹のオレンジ。そのまあるい実は,長い歴史の中で対立しながらも見事に一つの文化を作り上げた二つの異文化の実りに他ならない。

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